「異邦人」久保田早紀 1979年10月1日リリース
実は舞台はシルクロードではなく中央線の国立付近!
アメリカ文化の溢れる米軍基地の街、立川と学園都市、国立の、間で育った久保田早紀さん。お父さんが、米軍キャンプでの通訳をしていた事などもあって、早くから、外国の文化に触れて育ちました。
短大の卒業を迎えようという頃、マスコミ関係の就職を志望していた彼女はソニーの「ミス・セブンティーン」コンテストが、アイドル歌手のオーディションと知らずに、応募します。
応募の条件として、自分の歌を録音したカセットテープを送る事…という項目があり、歌を送ると、見事合格。同時にコンテストを受けた人の中に、あの松田聖子さんもいました。
アイドルになるつもりはなかったので、ディレクターと話し合い、アーティストとしてのデビューを目指す事に。
曲作りをはじめ、大学への通学途中に、中央線の中で、ふとひらめいたのが、この「異邦人」という曲。電車から見る国立付近には、当時は空き地がたくさんあり、子供が鬼ごっこをしている風景が目に止まりました。そこで『子供たちが 空に向かい 両手をひろげ』という歌詞が出来上がりました。
ただ、当時は「白い朝」というタイトルで、歌詞も違いました。しかし、曲は、いいけれど、インパクトがないという評価に。
ちょうど、この頃、プロデューサはエーゲ海を題材にしたジュディ・オング「魅せられて」をヒットさせていました。そこで、その第二弾として、異国情緒に訴えるシリーズ、シルクロードをテーマにした歌というコンセプトを作り上げます。
同時にアレンジをエキゾチックなイメージに変え、歌詞もそれに合わせ、タイトルも「異邦人」に。
この作戦が、大成功し、発売するや7週にわたりチャートで1位を獲得。約150万枚を売り上げる、大ヒットとなったのでした。「ジャケット写真は、吉祥寺のサムタイムというライブハウスで撮られた物です。
突然の大ヒットを飛ばしてしまった自分は、高いハードルを設定され、「音が楽しい」の音楽ではなく、音が苦しいの「音が苦」なってしまった。…と、久保田早紀さんは、のちに語っています。久保田さんは、スクエアのメンバーだった「久米大作」さんと結婚し、芸能界を引退しました。現在は、クリスチャンの音楽伝道者として本名の久米小百合で、クリスチャンの活動を行っています。
【カバー】