「J.BOY」浜田省吾 1991年6月8日リリース
スランプルになった自分の事を少年に置き換えて歌った!
皆に知られる代表曲の多い浜田省吾さんですが、意外な事に、長い下積みを経て花開いた、アーティストです。
広島で結成された「愛奴」というグループに参加した、浜田省吾さん。まずは、吉田拓郎のバックバンドとして活動をはじめます。これも意外なのですが、この時のパートは、ドラムでした。
地道な活動を行いながら、1975年「愛奴」として念願のデビュー。しかし、シングルもアルバムも売れず、大惨敗。1976年に、シンガーとしてソロデビューを果たしますが、こちらも、初回プレスはたったの3千枚。売れない事で、レコード会社からの、指示や要求も強くなりました。ロック志向なのに、ポップな曲作りを求められ、それに流された事で、スランプになり、曲も詞もかけなくなりました。
ここで浜田さんは、一つの決断をします。曲が上手作れない。だったら、もう自分の事を歌おうと。自分の事だったら、少なくとも正直に歌えるんじゃないかと。
そして、自分を知って貰う為に、地道にライブで地方を回りました。すると、その歌に共感する人達が増え、会場に足を運ぶお客さんが、徐々に増えはじめたのです。
そんな時、あるイベンターが「武道館でやってみないか?」と声をかけてきました。地方のホールばかりを回っていたので、武道館は無謀と思われていたのですが、ふたをあければ、1日で完売。浜田省吾さんの実力が、認められた日となりました。
この頃から、浜田さんの曲には、少年や青年の成長物語を描く、曲作りが多くなりました。自分自身を、いろんな少年に置き換えて、自分の事を歌いました。
そして、1986年9月にリリースされた12枚目のアルバムタイトルは「J-BOY」。この中には、浜田省吾の自分史を振り返るような、様々な少年が出てきます。アルバムタイトルにもなった「J-BOY」「この曲の中のメッセージは、自分自身に向けて歌っている部分もあるんです」浜田省吾さんは、そう語っています。
浜田省吾さんは、このアルバムで、初のチャート1位を獲得。そのアルバムの曲達は、大きな共感を呼び4週間、1位の座を明け渡すことはありませんでした。