「悲しい色やね〜OSAKA BAY BLUES」上田正樹 1982年10月21日リリース
大阪港からは尼崎の夜景は見えないという事で、 歌詞が変えられた!
父親がお医者さんだった事から、小さい頃は医師に憧れていたという上田正樹さんが、音楽への道へと進んだのは、高校2年の時。ブルースに根ざした音楽作りをしていたイギリスのバンド、アニマルズのコンサートを観に行ったのが、きっかけです。
「ひと晩で人生が変わった」という程の衝撃を受け、3階席で観ていたハズなのに、気がつけば1階席の最前列でステージに手を伸ばし、メンバーに握手を求めていたそうです。そのぐらいの興奮につつまれました。
その日を境に、ギターを片手に歌を歌う日々。ブルースやR&Bの名曲を片っ端からコピーし続けました。しかし、歌えば歌うほど、越えられない壁を感じるようになりました。ブルースは、その人が置かれた環境、国や人種の歩んできた歴史という、土壌があって、そこから発せられる魂の叫び。ただ、歌っているだけでは、そこに歌の命は宿りません。
そこで、家出して、キャバレーなどで歌いながら、歌と密着した生活にどっぷりとひたります。当時、外国人歌手しか歌う事の出来なかった、東京赤坂のMUGENというディスコのオーディションを受け、日本人で唯一合格。そこで揉まれて、歌に磨きをかけました。実力派の歌手がいるという噂が広まり、デビューする事に。1974年に伝説のR&Bバンド「上田正樹とサウストウサウス」を結成し、華々しくデビューするも、しかし、たった2年で、バンドは解散。その後は、大きなヒットにも恵まれず、地道にライブ活動をする事となりました。
環境を変えるために、レコード会社を移籍。その時に「悲しい色やね〜OSAKA BAY BLUES」と出会う事に。
作曲したのは、林哲司さん。上田正樹さんの個性的な声で、綺麗なバラードを歌ったらどうなるのだろう?と、スマートな英語詞の曲をイメージしながら完成させました。
ところが、作詞の康珍化さんが付けてきたのは、コテコテの大阪弁の入った歌詞だったので、林哲司さんは、こんな演歌みたいな曲、売れるわけがないと大反対。
案の定、リリース後の売れ行きは、良くありませんでした。ところが、大阪の人達の心にささったのか、関西の有線でのリクエストが増え、売れ出したのは、翌年。そしてシングルチャート1位を獲得する、ヒットとなりました。
実は、この曲の出だし、「滲む街の灯を二人見ていた」という歌詞は、当初は「尼崎の灯を二人見ていた」と書かれていたそうです。その後、大阪港からは、尼崎の夜景は見えないという事で、歌詞が変えられたというエピソードもあります。
【カバー】