「パーブルタウン 」八神純子 1980年7月21日リリース
この曲を同じキーで歌えなくなったら引退する覚悟!
歌手生命の危機に立たされ最後の曲になるかもしれないと作った「みずいろの雨」が大ヒットし、危機を脱出した八神純子さん。その後は、「思い出のスクリーン」「ポーラースター」と立て続けにヒットしアーティスト人生は、順風満帆と思われていました。
ところが、八神純子さんは、1980年4月に、突然休みを取り、アメリカのロサンゼルスに、2ヶ月のホームステイへと向かいます。みんなは驚きました。アーティスト活動も順調で、引っ張りだこの今、なぜ休養を?この時の話しは、後に出版された彼女の著書「54日間のアメリカ人」に、心のうちが、正直に告白されています。
休むと言った時「売れっ子は優雅だね」と、色んな人に皮肉を言われたそうです。でも違いました。実は彼女は精神的に押しつぶされそうになっていて、休みが必要だったのです。
彼女は、シンガーソングライターという肩書きに悩んでいました。自分が一番好きな歌うことのみに専念する事は許されず、「曲を作り、自分で演奏し、歌う」この3つをこなさないと価値がない、そう思い込み、悩んでいました。そして彼女はこの年のはじめから引退を考え始めるようになるのです。
自分が完全に潰れてしまう前に、建て直しを計ろう。それが休養と、環境を変える事でした。
そして帰国後の7月に、リリースしたのが「パープルタウン」。アメリカの街並みを思い浮かべて作った曲。60万枚のヒットを飛ばし、この曲で紅白歌合戦にも出場。見事、復活。
でも、あの時、あそこで勇気を持って休まなければ、この曲も、紅白歌合戦、そして現在の八神純子もなかったかもしれないのです。
1986年に結婚後、アメリカに渡り、歌手活動とはお休みしていた八神さん。2011年に発生した東日本大震災を受け、被災地の支援コンサートを開始。久しぶりの音楽活動にもかかわらず、当時と変わらぬ声で「パープルタウン」を歌い、驚かれました。
八神さん曰く、当時と同じキーで歌えなくなったら、その曲は、歌うのをやめる覚悟でいるとの事です。
【カバー】