「ルビーの指輪」寺尾聰 1981年2月5日リリース
仕事が無くなり、売れる物を探して家を整理していた時に出て来たのが、かつて作ったデモテープ!
寺尾聰さんは、高校時代にフォークグループ「ザ・サベージ」のボーカル兼ベースとして活動し、自ら作詞作曲した「いつまでも いつまでも」がヒット。しかし、バンドは2年で解散してしまいます。
そんな時に、俳優の石原裕次郎さんの目に止まり、裕次郎さん主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビューする事になります。寺尾聰さんのお父さんは、俳優の宇野重吉さんで、この「黒部の太陽」にも出演していて、2人は親子の役を演じています。
こうして、お父さんと同じ俳優の道を歩む事になった寺尾さんは、石原軍団入りし、「太陽に吠えろ」や「西武警察」に出演し、役者として活躍していきました。
ところが、ある日、突然の腹痛が寺尾さんを襲いました。緊急入院すると、重症の胃潰瘍で、手術で胃の大半を切除しなければならず、長期入院を余儀なくされてしまいます。退院後も、しばらくはアクションドラマなど激しい仕事は出来ず、徐々に仕事が無くなってしまいました。
これで、芸能人としての自分も終わりかな?と、身の回りの物を整理して、売れる物は売ったりしていたのですが、そんな時に出て来たのが、バンド時代に作っていたデモテープ。
この歌を売る事は出来ないか?誰かに歌ってもらえないか?と、以前、お世話になったレコード会社に持って行くと、「自分でやってみた方がいい」との返事。
そこで、事務所に報告に行くと『アイドルとニューミュージック全盛の時代に、30男の「つぶやきソング」は売れない』と言われてしまいますが、それを聞いていた、石原裕次郎さんの「おもしろそうだから、やってみたら」という一言で、歌手デビューする事に。
こうして生まれたのが、あの「ルビーの指輪」曲がリリースされると、予想を覆し、160万枚以上のセールスを記録。ザ・ベストテンでは12週連続、第1位を獲得する程の大ヒットに。寺尾さんのピンチを救ってくれたのは、この曲だったのです。
曲がヒットした事で、歌手活動が中心の生活となりました。しかし、本当は役者がやりたいと、ルビーの指輪を封印して、黒澤明監督の門を叩きました。1980年代後半から黒澤明が監督した『乱』『夢』『まあだだよ』に出演。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞しています。
【カバー】