THE YELLOW MONKEY「JAM」違和感を覚えたのはニュースの原稿ではなくアナウンサーの表情。

「JAM」THE YELLOW MONKEY 1996年2月29日リリース

吉井さんが違和感を覚えたのはニュースの原稿ではなく、不幸中の幸いというアナウンサーの安堵の表情だった

THE YELLOW MONKEY の「JAM」は、デヴィッド・ボウイがモット・ザ・フープルに提供した楽曲「すべての若き野郎ども(原題: All the Young Dudes)の日本版を作りたいと制作した楽曲です。「すべての若き野郎ども」は、世界中で大ヒットし、今ではロックファンなら誰もが知っているスタンダードナンバーのひとつです。若者の閉塞感、スカッとしないやり場の無い思いが歌われた曲です。

その日本版を作るにあたって、自分が抱えている不条理を全部紙に書いて行きました。社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書きました。それにバラードの曲をつけたら7分を超える長い曲になってしまったのです。今なら7分の曲もそういう思いの曲だと理解されるのですが、当時は7分のシングルなど考えられないとされ、仕方なく少しずつ言葉を削って行き、約5分の楽曲として完成しました。

吉井さんは、この曲を次のシングルにしたいと提案しました。しかし、スマッシュヒットとなった前作「太陽が燃えている」がキャッチーでポップな楽曲であったため、レコード会社、コロムビアの宣伝・営業は大反対をしました。

「これじゃ売れない」「この曲じゃあテレビに出られない」「バラードで勝負なんて早い」「我々が誘導して来た成功を潰す気か」と反対の大合唱。

しかし、THE YELLOW MONKEY の最大の理解者であるプロモーターの中原繁さんによって、この曲は動き出します。雑誌「音楽と人」に「レコード会社が発売を反対している」という吉井さんのインタビューを載せたのです。こうして一つのストーリーが走り出しました。ファンもどうなるのか、それを見守りました。そして中原さんは、所属事務所に「この曲は必ず代表曲になる」と強く推したので、事務所も決断し、シングルとして販売する事に。

さらにテレビには出られないと言われた5分強のこの曲。曲をテレビサイズに削るなら出演したくないという吉井さんの強い決意を受けて、中原さんは、ミュージックステーションと掛け合い、フル尺で演奏する事を取り付け、実現しました。

こうして発売された「JAM」は、1996年3月11日付のオリコンシングルチャートで初登場7位を記録し、8thシングル「太陽が燃えている」の最高位9位を更新しました。翌週には6位と順位を上げ、初登場から4週連続、計5回のTOP10入りを記録したのでした。

さて、このJAMはたびたび歌詞が賛否両論を呼ぶ事があります。それは

外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」「いませんでした」

という部分。
それに対し、

海外の事故などでの「乗客に日本人はいませんでした」というのは、大使館などに問い合わせが殺到しないようにしているための配慮である。

と指摘し、吉井さんはそれを知らなかったから誤解して「嬉しそうに」と間違って書いたのだと批判する記事が多数みられます。

しかし、吉井さんもインタビューで何度か答えているように、そのニュース原稿の事ではなく、伝えるアナウンサーの表情の事を指摘しています。神妙な顔で緊急のニュースを読み始めたアナウンサーが、「不幸中の幸い」というような感じで、安堵の顔になっている事に違和感を覚えたのです。極端な話、笑顔に見える事もありました。コンプライアンスがうるさい今ではそうありませんが、かつては、こういう事が結構あったのです。

似たような事は最近のニュース番組でもあります。不幸なニュースをお届けした後は、CMなどを挟んで一旦ブレイクする事が多いのですが、深刻な顔をして不幸なニュースを報じた後、CMを挟まずに「カキーン!」という野球の打球音を入れ「スポーツコーナーです!やりました!大谷選手が今日もホームランを打ちました」と意気揚々と伝えるアナウンサー。切り替え早すぎるだろと思った事はありませんか?不幸なニュースの時のしかめっ面は何だったんだとツッコミたくなります。この事を言っているのです。

この記事の最初に書いたように、吉井さんは「すべての若き野郎ども」に日本版を作ろうと思った時に、自分が感じる不条理な事をメモして行きました。そこには、そういう切り替えの早いアナウンサーの表情もあったのです。

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