松田聖子「赤いスイートピー」!ライバルに曲を書いてみないとユーミンを口説いた

「赤いスイートピー」松田聖子 1982年1月21日リリース

松本隆が『あなたのライバルに、曲を書いてみない?』とユーミンを口説いて出来た曲

1982年は歌謡界においての大転換期です。1980年に「裸足の季節」でデビューし、シングルを出せば1位というトップアイドルの地位を築いた松田聖子さん。それに続けとばかりに、各プロダクションが続々とアイドルをデビューさせました。

「花の82年組」と呼ばれ、中森明菜さん、松本伊代さん、小泉今日子さん、堀ちえみさん、早見優さん、石川秀美さん、三田寛子さんなどがデビューしたのです。しかも聖子ちゃんカットを意識したヘアスタイルで、ぶりっ子と呼ばれた可愛らしいドレス衣装も継承。男性ファンの奪い合いとなるほど、多くのアイドルが誕生しました。

一方の松田聖子さんといえば、「青い珊瑚礁」の大ヒット以降、売れっ子になりすぎて喉の酷使で、時折、声がかすれてしまう事も。

特に、大瀧詠一さんが作曲した「風立ちぬ」はメロディが難解で、聖子さんも当初「難しくて歌えない」ともらしたと言われています。音楽番組で披露しても、高音は苦しく、かすれてしまう事も度々。そこで、次の曲は、高音がメインではない喉をいたわる曲で行こうという事になっていました。

さらに他のアイドルと差別化する為に、女性ファンを増やそうという事になりました。こうして、白羽の矢が立てられたのが、松任谷由実さんです。ユーミンの作曲起用は、松本隆さんの発案だったそうです。当時、女子大生やOLの教祖となっていたユーミンの楽曲がいいのでは?と考えたのです。

『あなたのライバルに、曲を書いてみない?』と松本さんはオファー。

しかし、当初ユーミンはこの依頼を渋っていたそうです。作曲家としてではなく、知名度を利用されると感じていたからです。それでも、粘る松本さんにペンネームの「呉田軽穂」名義ならという条件で引き受けました。当時「呉田軽穂」名義はあまり知られておらず、松任谷由実という名前でなく、純粋に楽曲で勝負出来ると思ったからです。

ユーミンには、喉に負担が掛からないよう、キーを抑えたスローバラードをという依頼しました。

そして、作詞の松本隆さん。この頃は、81年に横浜銀蝿の「ツッパリHigh School Rock’n Roll登校編」がヒットしたように、ツッパリ、ヤンキー全盛期。そんな時代に、交際して半年を経ても未だ手を握らないカップルを登場させました。従来の男性上位的な恋愛像をひっくり返し、むしろ女性のほうが積極的な恋愛象。恋愛初期の男女のぎこちなさに共感する女性が増え、狙い通りこの曲から女性ファンが一気に増えたのです。

聖子さん自信も、この曲の時に、他のアイドルがマネする聖子ちゃんカットをばっさり切り、ショートカットで登場て、ファンを驚かせました。

こうして、花の82年組の登場を予測して、一足先にイメージチェンジに成功。聖子さんはまた大きなリードを作ったのでした。

この曲から誕生した、作詞:松本隆、作曲:松任谷由実(呉田軽穂)、編曲:松任谷正隆、そして歌:松田聖子という4人の松。ファンの間では4松作品とも言われたりしています。

【カバー】

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